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淺田榮次を知ってますか?

淺田榮次生誕150年記念


今年2015年は、本学の前身である東京外国語学校において英語教育に尽力した淺田榮次(1865-1914)の生誕150年にあたる年です。本学では、淺田榮次生誕150年を記念し、様々な記念イベントを開催しています。今回のTUFS Today では、淺田榮次とはどんな人物だったのかを、ご紹介します。

まずは、この記念碑を訪ねてみましょう!

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東京外国語大学府中キャンパス内、研究講義棟の脇には淺田榮次を記念した石碑が立てられています(写真左)。レリーフの下には淺田の業績が紹介されています。右上地図の赤丸の付近です。さて、この淺田榮次という人物、どんな人だったのでしょう?

誕生・幼少期

櫻馬場小学校卒業証書同校では助導として勤務しながら勉学に励みました。

淺田榮次は1865年(慶応元年)5月22日、山口県都濃郡徳山に生まれました。榮次は1872年(明治5年)7歳頃より旧藩校興譲館に、次いで櫻馬場小学へと進み学問に励みました。

1880年2月、山口県山口中学校に入学し、その後よりよい外国語教育の機会を求め、外国人講師が招聘されていた広島中学校へ転学します。しかし、学生による教頭排斥運動に関わったことで、1880年9月退校処分を受け、郷里に戻ります。写真は、櫻馬場小学校卒業証書同校では助導として勤務しながら勉学に励んだことを示す記録です。

工部大学校への進学

1881年3月、京都中学校へ進学した淺田は、米人C. H. ボールドウィンのもと英語の習得に励み、1883年7月同校を優等賞にて卒業します。その後、上京し、東京英和学校(現:青山学院)を経て、1884年4月官費生として工部大学校へ進むことになります。

淺田は工部大学校在学中、英語教師J. M. ディクソンの下で英語研究に没頭し、またその影響を受けキリスト教を信仰します。そして1886年工部大学校予科を優等賞(右写真)で卒業し、洋書20冊を授与されました。(写真左:工部大学校時代の浅田榮次(明治18年、左より三番目))

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米国留学へ

学制改革に伴い、淺田は第一高等学校を経て、帝国大学理科大学へ進学します。専攻は幼年期より得意であった数学でした。しかし、キリスト教に対する信仰心は高まり、「区々たる科学などに拘泥せんよりは、天地万有の理を究め、神の雄大なる真理を研究せんとの非常な熱心」 をもって、1888年2月理科大学を退学し、同年3月23日米国留学へ旅立ちました。(写真左:留学の際に記録していた日記。写真右:臨別書(米国留学に向け出立を前に書いた決意文))

留学の際に記録していた日記。横浜出航の頃からの記載がある。

臨別書 (米国留学に向け出立を前に書いた決意文)

米国留学時代―恩師ハーパーとの出会い

渡米した淺田はノースウェスタン大学に進み、神学の研究に臨みます。在学中、聖書研究に必要なヘブライ語の習得の為、彼は、当時米国における聖書研究の第一人者W. R. ハーパー(エール大学[当時]、写真左)が主催するThe American Institute of Sacred Literature(米国聖文学会)の通信添削指導(写真右)や夏期講習を受け、研鑽に励みます。

米国においても淺田の努力は認められ、明治24年5月14日同大学を卒業し学位を受けるとともに、優等賞として300ドルの奨学金を受けました。

恩師 W. R. ハーパー先生

The American Institute of Sacred Literature(米国聖文学会)の通信添削

旧約聖書研究で、シカゴ大学初の「人文学」博士号取得

シカゴ大学院博言科が創設されると同大院に進学し、ハーパーに師事を仰ぎます。彼はギリシャ語、アラム語、ヘブライ語、ラテン語、アッシリヤ語、アラビア語、エティオピア語、セミティック語、フランス語、ドイツ語等を修め、旧約聖書を科学的に検証する高等批評の研究を推し進め、1893年5月1日学位論文The Hebrew Text of Zechariah 1-8 Compared with the Different Ancient Versionsを提出します(写真左)。同年6月26日シカゴ大学創立以来最初の「ドクトル・オヴ・フィロソフィ」の学位を受ました。(写真右:シカゴ大学在学中の淺田)

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シカゴ大学在学中の淺田写真

日本への帰国と旧約聖書研究

1893年7月米国より帰国した淺田は、日本における旧約聖書研究の進展を目指し、青山学院神学部教授に着任します。淺田の旧約聖書の史に関する講義は学生に多大なる影響を与えたといいます。また教会関係者からも多数の講演依頼を受け、帰国した1893年には5カ月の間に30回の講演と説教を行いました。(写真左:淺田の講演録)

しかし、彼の先駆的な高等批評に基づく聖書研究は、国内において未だ受け入れられる土壌が形成されておりませんでした。勤務先の青山学院においても、同僚の宣教師から「神学校は学問をのみ教へるところではない」との批判を受けます。その折、東京外国語学校へ転出する話がもたらされ、青山学院神学部教授を退任します。(青山学院神学部教授退官後も聖書研究は継続し、未発表の論稿が多数遺されています(写真右)。なおその後も青山学院とは英語講師として関係が続けました。)

淺田の講演録:講演日時と概要が英語で記載されている。

淺田遺稿「旧約聖書緒論」:青山学院神学部教授退官後も聖書研究は継続し、未発表の論稿が多数遺されています、なお青山学院とも英語講師として関わり続けました。

東京外国語学校の英語科主任教授として

1896年、帝国議会に「外國語學校設立ニ関スル建議」が提出され、翌年には高等商業学校に附属外国語学校が創立されると、同校校長を務めた神田乃武の招きに応じ、翌1897年5月1日東京高等商業学校英語講師、同年8月27日に同校附属外国語学校教授に着任しました。(写真左上:神田乃武の書簡、写真右上:高等商業学校附属外国語学校教授任免状(1897年8月27日、淺田榮次)、写真左下:東京外国語学校教務主任ヲ命ス(1899年7月15日、淺田榮次))

2年後の1899年(明治32)7月15日、同校が分離して東京外国語学校が独立すると、淺田は教務主任となり発足間もない同校の体制整備に大きく関与しました。(写真右下:Rules of the Tokyo School of Foreign Languages (1907):淺田の直筆による1907年の東京外国語学校規則)

神田乃武との書簡

高等商業学校附属外国語学校教授任免状(1897年8月27日、淺田榮次)

東京外国語学校教務主任ヲ命ス(1899年7月15日、淺田榮次)

Rules of the Tokyo School of Foreign Languages (1907):淺田の直筆による1907年の東京外国語学校規則

英語教育の基礎を築く

asada001淺田はドイツ語・フランス語・ギリシア語・ラテン語・古代セム諸語に通じ、まさに語学堪能でした。英語についても、東京外国語学校の外国人講師メドレイに「私の知っている日本人の中で最も正確な英語を話す人は淺田先生と神田男爵である」と言わしめる程でありました。

淺田の授業・指導に対する厳格な態度はしばしば生徒から恐れを抱かれるほどで、後に東京外国語大学学長を務めた岩崎民平は「私は今でも怠けて充分に下読をしないで先生の時間に出て居た時の不安さを思ひ出す事が出来ます」と語っています。

淺田の指導を受けた1900(明治33)年度から1914(大正3)年度の英語科卒業生総数312名のうち実に半数の156名が英語教員として日本各地の専門学校或いは中学校、高等女学校に着任しました。昭和期の東京外国語学校入学者の中にはその志望理由を「中学時代の恩師影響を受け」と答える者もおり、淺田の「弟子」である卒業生たちの各地での活躍があったことが伺えます。

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教育方針「1年級諸氏に告ぐ」

淺田は入学直後の生徒に「一年級諸氏に告ぐ」と題した学校生活上の心得について説きました。そこでは教員との人間関係や規律を守ること等の生活指導に加え、「語学専門なるも通辯たるなかれ、西洋の文物を学び世界的人物と作れ、アングロサキソンの精神を学べ人物養成を旨とす」と、語学習得には言語だけでなくその文化的背景についても含めて理解深めることの重要性を説いています。(写真左:「一年級諸氏に告ぐ」原稿、写真右:修学旅行(1910‐1913年、淺田榮次・片山寛・岩崎民平))

「一年級諸氏に告ぐ」原稿

修学旅行(1910‐1913年、淺田榮次・片山寛・岩崎民平)

淺田の活躍は、東京外国語学校の外にも及びます。青山学院及び女学院、法学院(中央大学)で英語を教授していました。英語教授法調査委員(文部省)、文部省視学委員等を務め、主に中学校の英語教育の改革に尽力しました。また1908年には、淺田の監修のもと『小学校用文部省英語読本』THE MONBUSHO ENGLISH READERS(第1巻)が刊行され、40万部が採用されたといいます

淺田榮次とエスペラント

asada025 ←淺田が国外のエスペランティストと交わした書簡

東京外国語学校での教育の傍ら、浅田は、国際補助語・エスペラントの普及発展にも取り組んでいました。1887年ザメンホフ(Lazaro Ludviko Zamenhof)により生み出された16か条の文法からなる人工語エスペラントは、20世紀初頭、日露戦争に勝利し欧米諸国との対等な国際関係の構築を目指す日本において、言語上の障害を取り除き外国人とのコミュニケーションの円滑化を図れる容易な国際語として注目を浴びていました。そうした日本におけるエスペラントの勃興に浅田は尽力しました。

エスペラント協会の設立

asada026←淺田・黒板・安孫子共著「エスペラント日本辞書」

20世紀初頭、エスペラントの存在は英語雑誌・新聞等を通じて日本で知られるようになり、研究者たちの間に個人的関心から徐々に広まって行きました。1906年、史料編纂所の黒板勝美が中心となって協会設立に向けた活動が活発化します。同年6月12日神田一ツ橋外學士會事務所に淺田榮次を含む10名のエスペランチストが集まり、協会の設立を協議し、ここに日本エスペラント協会が発足しました。1906年3月17日に彼がある会合でおこなったスピーチは、日本最初のエスペラント・スピーチとされています。

本学にも、随意科エスペラント設置―大杉栄も学ぶ

日本エスペラント協会の発足から3か月後の1906年(明治39)9月、東京外国語学校内に随意科としてエスペラント科が設置されました。授業は淺田自身がその教授に当たり、約200名の生徒が受講 し「聴講者講堂に溢るる計りの有様」 であったといいます。授業内容・受講要件の詳細は不明ですが、1906年度の東京外国語学校の生徒数は本科521名、その他527名(内訳研究科143名・選科24名・専修科294名・速成科66名)の計1048名であり、受講対象が生徒全体であった場合、生徒の約5人に1人が、本科生に限った場合には約5人に2人もの生徒が受講したこととなり、その注目の大きさが感じられます。

東京外国語学校の語学教師が中心となり発行していた雑誌『語学』には、1号-14号・19号・20号の全16冊に渡り2頁のエスペラント語講義の枠が設けられていました。この『語学』誌上のエスペラント講師を担ったのは1903年(明治36)-1905年(明治38)に東京外国語学校仏語学科選科に在籍した大杉栄でした。彼は同時に日本エスペラント協会の監理下に設立されたエスペラント語学校(本郷区壹岐殿坂習性小学校内)の講師の任に就き、その普及を図り、淺田は同校の名誉講師にその名を連ねていました。

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エスペラント語学校第1回卒業式:1906年12月16日、於:東京外国語学校前、1列目中央が淺田、その左横が大杉栄。

死去―図書館での卒倒

1914年11月、淺田は当時、神田錦町にあった東京外国語学校の図書館の書庫で倒れ、永眠しました。図書係に対し発した、「此所は静かで宜しいから少し勉強しましょう」との言葉が最後の言葉だといいます。

図書館での死去について、東京外国語学校教授山口小太郎は「軍人ならば戦場に、學者ならば書庫書斎に、美しき最後を見るは、好適の死處を得たるものとして聊か慰むるをことを得べけん。」と述べています。(『淺田榮次追懐録』276頁)

淺田墓地(青山霊園)淺田の葬儀

左:淺田墓地(青山霊園)当初、右:淺田の葬儀


淺田榮次を知っていますか?」 イベント情報

生誕150年を記念し、次のようなイベントが企画されています。

その1:東京外国語大学文書館 企画展「淺田榮次と東京外国語大学」
期間:2015年10月2日〜2016年1月末
於:東京外国語大学附属図書館1階大学文書館展示スペース

その2:建学記念会特別講演「淺田榮次生誕150年」
開催日:2015年10月31日(土)
於:東京外国語大学アゴラ・グローバル(プロメテウス・ホール)
なお、この催しは、本学卒業生等を対象としたものとなっています、

その3:山口県周南市、「浅田栄次生誕150周年記念祭」
2015年10月17日(土)、本学立石学長が、淺田榮次に関連した講演を行いました。

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20151017-002 淺田をたたえる記念碑の除幕式(山口県徳山小学校正門前)


最後に・・・多磨墓地に行ってみよう!

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現在、淺田榮次は、多磨墓地に眠っています。在校生のみなさん、ぜひ、一度、訪ねてみてください(場所は、多磨墓地入口の管理事務所で教えてもらえます。)