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東京外国語大学とスペイン語教育

2017.9.21公開

s120-971897年東京外国語学校に日本で初めてスペイン語専攻の課程が誕生しました

・・・それから120年。

東京外国語大学、そして日本でのスペイン語教育120周年を記念し、10月27日〜28日の2日間、スペイン語120周年記念事業—スペイン語圏の言語・文化・社会—を開催します。
s120-98また、10月28日(2日目)の午後のホームカミングデイでは、ラテンアメリカ社会史学者でラテン&シャンソン歌手としても活躍する慶應義塾大学名誉教授の清水透先生(本学スペイン語卒)による歌とトークの特別公演も開催します!
どちらも一般公開で開催します。卒業生はもとより多くの方にご来場いただけたらと思います。イベントに関する詳細・参加申込はこちらから

 

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さて、今回のTUFS Today特集では、スペイン語教育120周年を記念し、東京外国語大学とスペイン語教育を特集します。


本学におけるスペイン語教育の歴史は、まさに日本におけるスペイン語教育の歴史といっても過言ではありません。年表でおさらいします。

概要
1897 年 高等商業学校付属外国語学校創設(英仏独露西清韓の7学科設置)。西班牙語科は日本初のスペイン語専攻。9月日本人最初のスペイン語教師、桧山剛三郎助教授着任。12月、初代外国人教師フランシスコ・グリソリア外国教師来日、翌年着任。
1899年 東京外国語学校独立。西語学科へと改称。
1900年 第一期生3名(金沢一郎、波多野元治、伊藤信一)が卒業。
1907年 3代目外国人教師ゴンサーロ・ヒメネス・デ・ラ・エスパーダ着任
1908年 西語科主任教授村上直次郎、第3代校長に就任。通訳五人組(本学スペイン語速成科)がサントス港で笠戸丸を出迎え現地通訳を担う
1910年 西語部同学会結成、『會誌』刊行開始。
1915年 篠田賢易著『西語初歩』(Libro de lectura y conversacion東京外国語学校、日本人の手による最初のスペイン語読本)出版
1917年 第4代外国人教師ホセ・ムニョス・ペニャルベル着任
1919年 各語学科を語部に改編、スペイン語部に改称。各部に文科・貿易科・拓殖科が設置
1927年 修業年限が3年から4年に延長。
1936年 竹平町校内に金沢一郎教授胸像が建立(1944年に金属供出)。
1941年 文科系学生の徴兵猶予廃止。
1944年 東京外事専門学校と改称。修業年限を3年、本科を第1部と第2部に分けスペイン語は第1部に置かれる
1945年 フィリピン科が設置、笠井鎮夫(1919年西語卒)がタガログ語担当
1949年 東京外国語大学設立。ポルトガル学科と改称(定員30名)。
1951年 12学科が7部へと再編され、イスパニヤ学科は第五部第一類と改称。
1955年 スペイン語入試倍率37倍を記録
1961年 スペイン科へ改称
1964年 スペイン語学科へと改称
1966年 大学院(修士課程)を設置
1979年 同窓生の手により『東京外語スペイン語部八十年史』刊行
1995年 欧米第二課程スペイン語へと改組
2012年 学部改編を行い、これまでの外国語学部から、言語文化学部と国際社会学部に分かれ、それぞれスペイン語/西南ヨーロッパ地域/ラテンアメリカに専攻を分けスペイン語の教育を実施。

(1)附属外国語学校の創設・独立とスペイン語教育

日清戦争後に海外進出熱が高まるなか、1897年高等商業学校(現:一橋大学)に附属外国語学校が設置されます。同校には7語科が置かれ、その一つとして日本初のスペイン語教育課程となる西班牙語科が誕生しました。同年9月には日本人最初のスペイン語教師である桧山剛三郎助教授が着任し、第1期生正科6名、特別科11名の教育に当たりました。翌年には初代外国教師であるフランシスコ・グリソリアが着任しました。

東京外国語学校が独立した1899年には西語学科と改称され、篠田賢易が新たに講師として着任し、グリソリアが読み方・作文・会話、桧山がスペイン史、篠田が訳読を担当しました。1900年には第1期生の金沢一郎、波多野元治、伊藤信一が卒業し、金沢は翌年外務省勤務を経て講師に着任します。その後、1902年末には留学中であった村上直次郎教授も帰国し、第3代校長に着任するまでの6年間のスペイン語教育に携わりました。

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村上直次郎校長と校長室(『Salve Schola』(1911年アルバム)所収)

【コラム】日本におけるスペイン語教育の開始~高等商業学校におけるスペイン語教育~

日本人最初のスペイン語教師である桧山剛三郎は、高等商業学校時代にイタリア人の外国人教師エミリオ=ビンダよりスペイン語を学びました。高等商業学校では1891年から第二外国語としてスペイン語教育が開講されており、ビンダが日本における最初のスペイン語教師とされています。

(2)最初期のスペイン語教育

最初期には教科書はなく、グリソリア氏のスペイン語なまりの英語による説明を「一から十まで口授を筆記」したそうです(平松生「回顧二則」(西班牙語同學會『會誌』60-61頁)参照)。篠田教授は教材の必要性を感じ読み物と会話のテキストを編纂し、後に日本人の手による最初のスペイン語読本となる『西語初歩』(Libro de lectura y conversacion東京外国語学校、1915年)として出版されます。

最初期の西語科には約5-6名の入学者があり、1902年頃からは入学者が20名台に急増し、その後日露戦争の影響からか募集が実施されなかった1905年を除き、毎年一定の入学者がありました。西語学科卒業生の多くは、商社・商船会社・移民会社に進み、海外勤務者も多くいました。1908年に笠戸丸に乗船し第一回ブラジル移民として海を渡った移民たちの通訳に当たったのは西語学科中退者・専修科修了者たちであり、この後もブラジルやペルーに移住する西語科学科卒業生は少なくありませんでした。

また明治末期・大正初期から陸海軍より将校が依託学生として派遣され、スペイン語選科生として本学で学び、修了者は主に中南米の駐在武官となりました。

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篠田賢易教授の近影(『Salve Schola』(1911年アルバム)所収)


【コラム】最初期のスペイン語教授 篠田賢易

・篠田賢易(1871-1918年)     愛媛県出身。中学校卒業後、在日フランス人外交官使用人となり、その帰国に伴い19歳で渡仏。同外交官のアルゼンチン赴任に同行し2年間滞在しスペイン語を修める。1899年東京外国語学校西語学科講師に着任。1908年より西語学科主任教授を務める。スペイン語教育法・教材の検討を行い『西語初歩』(1915年)を出版。1918年47歳の若さで急逝。

 【コラム】通訳五人男

1908年6月、日本最初のブラジル向け移民船笠戸丸がサントス港に到着した。移民を迎え入れたのは、スペイン語の速成教育を受けた嶺昌、大野基尚、平野運平、加藤順之助、仁平嵩の5人で、耕地通訳の先駆けとなりました。その後、「南米方面ノ貿易及移民ノ必要ニ応セントス」として葡萄牙語科が設置されるのは1916年のことでした。

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(3)東京外国語学校のスペイン語外国人教師たち 

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エスパーダ氏近影(『Salve Schola』(1911年アルバム)所収)

初代のスペイン語外国教師は、スペイン政府の紹介で派遣されることとなったフランシスコ・グリソリアで、1897年12月に来日し、1903年7月まで学生たちの指導に当たりました。その後、2代目には1903年10月よりエミリオ=サピーコが、3代目には1907年1月よりゴンサーロ・ヒメネス・デ・ラ・エスパーダが着任しました。

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エスパーダ氏の「勲五等瑞寶章」 (国立公文書館所蔵)

エスパーダは生徒たちから「エスパダさん」と呼ばれ慕われ、1916年7月まで9年半にも及びスペイン語・スペイン文学を教授しました。彼は新渡戸稲造『武士道』のスペイン語翻訳等を行い、日本文化の紹介にも携わりました。エスパーダを師と仰いだ永田寛定は1909年の卒業と同時に講師に採用され(後に教授)、『ドン・キホーテ』をはじめスペイン文学を多数翻訳します。また1915年には「同校傭入以来茲ニ八年有餘其間常ニ熱心教授ニ從事シ功績顕著ナル者」として「勲五等瑞寶章」を受けました。

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ホセ・ムニョス

1917年に第4代外国人教師となったホセ・ムニョス・ペニャルベルは、戦中・戦後を挟み1966年まで本学におけるスペイン語教育に従事しました。その間、彼はスペインには一度も帰国せず、日本人と結婚し晩年には日本に帰化しました。

(4)西語部文科・貿易科・拓殖科の設置

第一次大戦中の教育改革のなか文部省は、東京外国語学校を改め、従来の外国語科に加え貿易科・拓殖科を置く「東京外国貿易殖民語学校」への改組を計画します。直前まで当事者である学校職員・生徒に知らされていなかった改革は、猛反発を受け校名存続運動が起ります。これにより外国語の校名は存続する一方で、組織改編は実施され1919年に各語学科は語部へと改編され、各語部には文科・貿易科・拓殖科の3科が置かれるようになります。

翌1920年より募集の始まった西語部3科には、貿易科12名、拓殖科12名、文科3名の計25名が入学します。同年の西語部入学志願者は貿易科121名、拓殖科52名、文科6名であり、スペイン語学習を志す若者の関心は貿易・商業にあったことが伺えます。その後も貿易科が多数を占め、西語部の卒業生は総じて実業界への進出が多くみられました。第1期卒業生にして西語科主任教授を務めた金沢一郎は、昭和初期の不況時にも生徒の就職の世話をするなど学生の面倒見がよく、1936年同窓生有志の手で校内(竹平町)に胸像が立てられました。この胸像は1944年に金属供出され、今日には伝わっていません。

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1919年史劇『調高矣洋絃一曲』西語部(絵葉書)

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1920年詩劇『王なればこそ』 西語部(第3回語学大会絵葉書)

(5)戦時下の西語部

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1940年頃笠井鎮夫教授授業(『(1942年アルバム)』所収)

1938年4月国家総動員法を受け、同年6月文部省は「集団的勤労作業運動実施に関する件」を発布し、学生たちの勤労動員が始まります。日米開戦を経て戦局が悪化すると、労働力の不足を補う為、学生たちの勤労動員は一層強化されます。また1941年10月には文科系学生の徴兵猶予が廃止されたこともあり、学徒動員と学徒出陣により、授業は閑散としたものに変わって行きます。1944年3月末に東京外事専門学校と名称を変えた本学においても、学徒動員として三菱製鋼の工場などに向かいました。その為、1944年においては、同年に入学した1年生を除き、殆んど授業が実施されなかったようです。

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1940年頃軽井沢への軍事教練(『(1942年アルバム)』所収)

外事専門学校への改称に伴い、本科は東洋語を中心とする第一部と西洋語の第二部に分かれましたが、西語部は葡語部とともに第一部に含まれ、イスパニヤ科と改称されます。また外事専門学校時代には1945年より4年間だけフィリピン科が設置され、イスパニヤ科の主任になる笠井鎮夫(1919年卒)がタガログ語を担当しました。

他方でスペイン語部昭和17年9月卒の学生らは、卒業年の5月、前年から修業期間が半年間短縮され、9月の卒業と入営が決定していた彼らは、日頃「ほの暗い教室で面白くもない教師の十年一日の如きマンネリ講義を聞かされている」ことへの鬱憤を晴らすために授業をサボタージュして大菩薩峠(山梨県)への遠足を強行した。クラス27名中21名が参加し、入営前の学生生活を楽しんだといいます。

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1940年頃「西語第三学年」教室前で煙草を吸う学生(『(1942年アルバム)』所収)

(6)戦後の新制大学

戦後の食糧・経済事情の悪化のなか授業が再開されます。1949年に新制大学となった東京外国語大学では語科の改編が度々行われます。新制大学の発足に伴い、1949年イスパニヤ科はイスパニヤ学科と改められ、1951年には学則改正に伴い従来の12学科が7部へと再編され、イスパニヤ学科は第五部第一類と改称されます。その後、1961年にはスペイン科、1964年にはスペイン語学科へと改称されます。

戦後の外国語需要の高まりのなか東京外国語大学には多数の入学志願者が集り、入試は高倍率となります。スペイン語も特に人気が高く1955年には37倍を記録します。そのため新制大学発足当初の1949年30名であった定員は、翌年には40名に増員され、1957年には60名に大幅増員されます。定員増に伴い授業は二クラス制で実施されるようになります。

また1966年には本学に大学院外国語学研究科修士課程が設置され、研究者養成が進められます。

【コラム】立石博高学長の在学時

1971年の夏―下宿先のマンションの前で

学部在学当時(スペイン留学中)の立石学長(1971年8月、最初の留学の際にマドリードの下宿前にて)

現東京外国語大学長の立石博高学長は、19694月に本学外国語学部スペイン語学科に入学します。当時は学園紛争の最中で混乱期にあり、入学してしばらくは大学が閉鎖されていてキャンパスに通うことができなかったと言います。立石学長が初めてスペインを訪れたのは、大学3年生の夏です。1年間休学をしてマドリード大学で学びました。大学4年生の時、最初の外務省派遣員制度に応募して採用され、2度目の休学をして、2年間在スペイン日本大使館に事務職員として勤務しました。この間、マドリード大学の夜間授業に通いましたが、スペインの歴史に本格的な関心を抱くことになり、帰国して大学卒業後は大学院に進学することを決めたとのことです。都合7年間の大学生活でしたが、悩みながらもさまざまにチャレンジしたことが、その後の糧になったと言います。

(7)好調な就職と女子学生の増加

高度経済成長のなか、スペイン語就学者の就職は好調でした。神武景気が終りなべ底不況と呼ばれた1957年においても10月時点でスペイン語就学者の就職内定率は94%と他の学科を圧倒し、主として商社・銀行・メーカーに就職しました。当時の『東京外国語大学新聞』の記事によると「中南米貿易のおよびその企業進出によるスペイン語ポルトガル語が今年も相変らず良く、スペイン語などは求人のあつた一流会社、銀行への受験者がなくなるという現象さえ呈している」ほどでした。

また1951年にはイスパニヤ科最初の女子学生が入学します。その後昭和40年代には女子学生が急速に増え、1973年にはスペイン語学科入学者61名中34名が女子学生となり過半数を占め、その後も女子学生の比率は高まって行きます。

スペイン語の同窓生の手により1979年に『東京外語スペイン語部八十年史』が、1981年に同『別巻』が編纂されました。

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就職状況を伝える『東京外国語大学新聞』(41号1面(昭和32年10月20日))

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1983年原ゼミ (『東京外国語大学卒業アルバム』1983年所収)

(8)今日の東京外国語大学におけるスペイン語教育

90年代初頭、大学設置基準の大綱化に伴う大学改革のなか、本学では言語科目(語学科)別の教育体制から、より広範な地域文化の研究教育体制が目指され、1995年スペイン語学科は欧米第二課程スペイン語と改められます。

2012年には専門教育の充実化を目指し、「言語文化学部」と「国際社会学部」の2学部制が導入され、言語文化学部スペイン語及び、国際社会学部西南ヨーロッパ地域/ラテンアメリカ地域へと変わり今日に至ります。


東京外国語大学の大学文書館展示スペースでは、10月2日〜11月上旬まで「東京外国語大学とスペイン語教育」と題した企画展も行います(※開催期間中10月末に展示内容の変更あり)。東京外国語大学に関する常設提示もありますので、皆さまぜひお出かけください。

東京外国語大学へのアクセス

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