Skip to content

戦後70年企画〜東京外国語学校と戦時下の学生たち

2015.7.31掲載

東京外国語大学では、戦後70年という節目の年を迎え、大学文書館を中心として、東京外国語学校・東京外事専門学校に在籍された卒業生の皆様への聞き取り調査と資料収集を実施しています。その一部を紹介します。

昭和2年 富士裾野東京外国語学校野外教練(1927年)

昭和2年 富士裾野東京外国語学校野外教練(1927年)

1.戦時下の校舎

東京外国語学校の校舎は、皇居のお濠端、麹町区竹平町に位置していました。関東大震災後に一時的に建てられた平屋の木造校舎でしたが、新校舎の用地問題と戦争による校舎建設資金の不足により、約20年間もこの仮普請が本校舎となりました。床板が時にストーブの薪に利用されることがあるほどボロボロであった校舎は、鳥小屋、馬小屋、或いは豚小屋と呼ばれました。

戦時下の校舎 鳥小屋と呼ばれた竹平町校舎(1924-1944年)

戦時下の校舎 鳥小屋と呼ばれた竹平町校舎(1924-1944年)

戦時下の校舎 竹平町校舎時代の健ちゃん食堂(1942年頃と推定)

戦時下の校舎 竹平町校舎時代の健ちゃん食堂(1942年頃と推定)

戦中戦後の食糧難の時代に外語の学生たちに食事を賄った「健ちゃん食堂」と呼ばれる学生食堂がありました。戦前の竹平町、戦後の上石神井・上井草、そして西ヶ原校舎と、校舎移転の折にも一緒に移転をしました。戦中の配給制の際には食券により食事を提供し、満足な食事ができない時代、肉無しの「あさりのカレーライス」はご馳走であったといいます。

戦時下の校舎 竹平町校舎図面(1924-1944年)

戦時下の校舎 竹平町校舎図面(1924-1944年)

竹平町校舎には、小教室が数多く存在し、各語部の部屋として語学の授業に使われました。また、語部は文科・法科・貿易科・拓殖科に分かれ、簿記・経済・商法・国際法など、それぞれの科の専門授業は語部の枠組みを越えて科毎に大教室で実施されました。校舎の運動場は体操に利用されたが非常に狭く、部活動や軍事教練は滝野川の新校舎予定地のグラウンドで実施されました。

戦時下の校舎 竹平町校舎の教室

戦時下の校舎 竹平町校舎の教室

戦時下の校舎 竹平町校舎の名札

戦時下の校舎 竹平町校舎の名札

大教室の授業では出席確認を、生徒の名前が書かれた木札(名札)の回収により行っていました。名札の回収が済むと、教室の窓から庭や廊下にそっと抜け出す「授業エスケープ」と呼ばれる行為がしばしば確認されたとか…。しかし下駄履きの当時、廊下側からエスケープを試みると、大きな音が鳴り響いたと言います。

2.戦時下の授業と学生生活

1938年(昭和13年)4月国家総動員法の公布に伴い、6月文部省は「集団的勤労作業運動実施に関する件」を発布し、学生たちは夏季休暇などの時期に、農家や軍用品の生産等の簡易な作業に従事することが定められ、勤労動員が開始されました。翌年には、集団勤労作業は「漸次恒久化」され、学生たちの勤労動員が押し進められ、こうした動きは日米開戦(1941年12月)以降、徴集により労働力の減少が進むと一層加速します。

1941年(昭和16年)2月に勤労動員の期間は1年につき30日と制限されていましたが、1943年(昭和18年)10月、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が決定されると、勤労動員は「教育実践ノ一環」として、1年の三分の一程度まで引き上げられ、学生たちは労働力として活用されることとになります。また同年10月には文科系学生の徴兵猶予が廃止されたこともあり、学徒動員と学徒出陣により、授業は閑散としたものに変わって行きます。

1944年(昭和19年)2月、戦局が悪化するなかで「決戦非常措置要綱」が閣議決定されると、中学校以上の学生は「今後一年、常時之ヲ勤労其ノ他非常勤務ニ出動セシメ得ル組織体制」に置くことが定められ、4月半ばころより、全国の学生たちは軍需工場へと動員されます。同年3月末に東京外事専門学校と名称を変えた本学においても、学徒動員として三菱製鋼の工場などに向かいました。その為、1944年においては、同年に入学した1年生を除き、殆んど授業が実施されなかったようです。

1945年(昭和20年)3月には、「決戦教育措置要綱」が閣議決定され、「国民学校初等科ヲ除キ、学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル間、原則トシテ之ヲ停止スル」ことになり、学生生活から授業が姿を消してしまいます。

戦時下の授業と学生生活 授業風景(ロシア語)-ワルワーラ・ブブノワ講師の授業風景

戦時下の授業と学生生活 授業風景(ロシア語)-ワルワーラ・ブブノワ講師の授業風景

東京外国語学校でロシア語講師を務めたワルワーラ・ブブノワ講師は、主として会話の授業を担い、綺麗なロシア貴族と会話できると生徒に人気でした。各生徒に5分程度与えられたロシア語会話の時間を生徒たちは待ち焦がれていたそうです。加えて露語部にはミチューリン氏、ストルジェシェフスキー氏など複数の外国人講師が在籍し、戦時下にあっても充実した授業が行われました。また、戦禍が厳しくなるにつれ、世間では外国語禁止が叫ばれ、街からは横文字が消えましたが、東京外国語学校においては、その制限はなく、外国人講師のもと会話訓練が行われました。

11

戦中期、満洲開拓・日支事変の影響もあり「大陸雄飛」を志す若者も多く、支那語部は独語部と並び、高い受験倍率を誇る語部の一つでした。また当時の外語の受験は、数学が代数のみに限定されており、数学が苦手な受験生が多く受験することもありました。

3.学徒出陣〜学生たちの戦争

1937年(昭和12年)日支事変(日中戦争)、1941年(昭和16年)12月の対米開戦以降、戦線の拡大と戦死者の増大に伴い、学生たちへの徴兵猶予が改められてゆきます。

対米開戦直前の1941年(昭和16年)10月、文部省は「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十六年度臨時短縮ニ関スル件」を公布して、大学・専門学校・実業専門学校の修業年限を3か月短縮し、1942年3月卒業予定の者を1941年12月に卒業させること決めました。これにより、同年度の卒業予定者は12月に徴兵検査を受け、1942年2月に入隊することとなりました。

更に1942年(昭和17年)には、「大学学部ノ在学年限又ハ大学予科、高等学校高等科、専門学校若ハ実業専門学校ノ修業年限ハ当分ノ内夫々六月以内之ヲ短縮スルコトヲ得」として、大学・専門学校、そして予科・高等学校の修業年限が6カ月短縮され、同年度の卒業生は1942年9月の卒業と、10月の入隊が決定されました。

そして、1943年(昭和18年)10月1日、東條内閣は、在学徴収延期臨時特例を公布し、理工系・教員養成系(師範学校)を除く文科系学生の徴兵延期措置を撤廃します。これにより文科系の学生の多くが徴兵検査を受けることとなり、同年10月21日に明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」開催されます。壮行会には東條首相も出席し、この時出征の対象となった東京外国語学校の20歳以上もまた参列しました。10月・11月に徴兵検査を受けた学生たちは、12月に入隊し各種訓練に従事し、戦場へ向かいました。

東京外事専門学校(東京外国語学校)では、1944年学則における修業年限が正式に4年制から3年制に短縮されますが、この措置も修業年限短縮の影響を受けたものと言えます。当時の学生のなかには、東京外国語学校が他の3年制の官立専門学校とは異なり4年制であり、1年分徴兵猶予が長いことを志望理由に挙げた方もおり、戦時下の学生たちにとって、修業年限は大きな意味を持っていました。

また、下士官の不足から、大学・専門学校以上の学生たちは、特別幹部候補生(陸軍)や海軍予備学生の試験を受け、士官候補生として訓練を受ける者が多くいました。東京外国語学校の生徒控室には、海軍予備学生募集のポスターが貼られていました。右写真の掲示板には、「徴集延期々間延長願」の提出を命じる生徒課の掲示が確認できます。

徴兵猶予の撤廃

徴兵猶予の撤廃

軍隊経験 日出生台演習場にて(昭和18年) (写真:野口五男氏御提供)

軍隊経験 日出生台演習場にて(昭和18年) (写真:野口五男氏御提供)

学徒出陣で多くの若者が亡くなりましたが、その一人、瀬田万之助さんが死の2日前に郷里の両親にあてた手紙が、戦没学徒の遺書を集めた遺稿集『きけ わだつみの声』(光文社、1957年)に収められています。その一部をご紹介します。

≪マニラ湾の夕焼けは見事なものです。こうしてぼんやりと黄昏時の海を眺めていますと、どうしてわれわれは憎しみ合い、矛を交えなくてはならないかと、そぞろ懐疑的になります。避け得られぬ宿命であったにせよ、もっとほかに、打開の道はなかったものかと、くれぐれも考えさせられます。あたら青春を、われわれはなぜこのようなみじめな思いをして暮らさなければならないのでしょうか。若い有為の人びとが次々と戦死していくことはたまらないことです。中村屋の羊羹を食べたいと今ふっと思い出しました。≫

瀬田万之助さんは、1941年4月に東京外国語学校支那語貿易科に入学し、43年9月繰り上げで卒業し、同年12月に入営して、45年3月7日、フィリピンのルソン島クラーク付近で戦死しました。享年21歳でした。

4.終戦直後

1945年(昭和20年)8月、終戦の日は勤労動員先の工場で迎えた生徒も少なくありませんでした。西ケ原の校舎焼失後、東京美術学校など3カ所に間借りしていた東京外事専門学校は、翌1946年9月に板橋区上石神井の旧東京工業専門学校附属電波兵器技術専修学校と私立智山中学校の2カ所の校舎を借用し、移転しました。授業は再開されましたが、出席率は非常に低かったようです。学生たちは、戦後のインフレと食糧難の中、生活のためアルバイトに精を出しながら学業を続けなければならなかったからです。

板橋区上石神井1丁目79番地(東京工業専門学校の電波兵器技術専修学校跡)

板橋区上石神井1丁目79番地(東京工業専門学校の電波兵器技術専修学校跡)

苦しい生活状況は教える側も同様です。終戦直後の混乱期には教官の異動が激しくありました。不足を補うため、新しい教官を採用しましたが、多くが個人的な事情や病気のため相次いで短期間で辞職したようです。

1949年(昭和24年)春、西ケ原にようやく粗末ながら二階建ての木造校舎が一部完成しましたが、全学の移転がほぼ完了したのは1951年(昭和26年)3月となりました。1949年に新制の東京外国語大学が発足し、東京外事専門学校はこれに包括されることになりました。1951年3月に最後の卒業生(外語創立時から数えて第52期)を出して東京外事専門学校は廃止され、その7年間の歴史を終えました。

写真提供:東京外国語大学文書館

より詳細をご覧になりたい方は、2015年9月末まで本学大学文書館展示場(附属図書館1階)にて企画展『東京外国語学校と戦時下の学生たち』を開催していますので、お誘い合わせの上、お越しください。

[ ‘åŠw•¶‘ŠÙ íŒã70”NŠé‰æ“W “Œ‹žŠO‘Œê‘åŠw‚Ɛ펞‰º‚ÌŠw¶‚½‚¿DSC_0289

  1. 開催期間:2015年7月9日〜同年11月末
  2. 会場:東京外国語大学府中キャンパス附属図書館1階大学文書館展示場
  3. その他:申込不要、入場無料

スクリーンショット 2015-07-26 0.09.35スクリーンショット 2015-07-26 0.09.50スクリーンショット 2015-07-26 0.10.06